銭湯好きの中には、伝統的な銭湯建築や銭湯のユニークな装飾に興味を持ったことがきっかけで、銭湯を好きになった人を少なからず見かけます。銭湯好きと建築好きは、相性がよいのです。今も昔も、地域に欠かせない場所の一つである「銭湯」。時代とともに変化しながら、訪れる人たちの身も心も芯まであたためています。
そういった銭湯や建築が好きな人に永年愛読されている本があります。その名も『風呂のはなし(物語ものの建築史)』。
著者の大場先生は、日本の民家や町家を中心とした建築史の専門家。建築的側面に焦点をあてながら、日本におけるおふろの歴史を分かりやすく解説する内容になっています。かくいう筆者も約20年前に購入し愛蔵していました。
今回はその大場先生に、「おふろの歴史」をテーマに取材。おふろの意外な歴史から庶民とおふろの関係まで、さまざまなお話が飛び出しました。
(プロフィール)
1955年三重県生まれ。立命館大学衣笠総合研究機構教授。京都府立大学名誉教授。工学博士。専門は日本建築史。2021年より現職。著書は多数あり、近著に『図説 付属屋と小屋の建築誌 もうひとつの民家の系譜』(鹿島出版会)、『「京町家カルテ」が解く 京都人が知らない京町家の世界』(淡交社)、『京都 学び舎の建築史 明治から昭和までの小学校』(京都新聞出版センター)など。
おふろのはじまりは「蒸気浴」と「湯浴み」
先生の『風呂のはなし』を愛読していたので、取材をとても楽しみにしていました。
大場先生:ありがとうございます。もう40年ぐらい前になりますが、単著としては初めての仕事でしたね。
さっそくおふろのルーツについてお聞きしていきたいのですが、まずは「ふろ」の語源について。『風呂のはなし』の中で「ふろ」の語源は「ムロ(室)」との説を紹介されていましたね。
大場先生:民俗学者の柳田国男の説ですね。彼は「ムロ」を利用した蒸し風呂が風呂のルーツだと考えたんです。石窟などの「ムロ」に蒸気を満たして蒸気浴をしていた遺構が、瀬戸内海沿岸などにいくつか残っています。原始的な入浴スタイルとして、そういった蒸し風呂は各地にあったのではないでしょうか。
「石風呂(いわぶろ)」や京都の「八瀬のかま風呂」が、今に伝わる原始的なおふろの代表例として本の中で紹介されていました。
大場先生:日本は温泉が豊富に湧いているので、直接お湯に浸かるスタイルの「湯浴み」も蒸気浴と並行して古くから行われていたと思います。「湯浴み」は大量のお湯が必要になりますし、条件が整わないと難しく、場所が非常に限定されますからね。
対して蒸気浴は、少量のお湯で全身浴ができる非常に合理的な入浴法なんです。だから蒸し風呂をベースにして内風呂も発展していきますし、銭湯もそういった蒸気浴のスタイルから起こってくるという形ですね。
石風呂の仕組みと入浴法は、どのようなものなんでしょうか?
大場先生:燃料は木の枝だったり、枯葉だったりといろいろとあるようですが、まずムロの中でそれらを焚きます。燃え尽きたらある程度、燃えがらを掻き出し、ムロの中に濡らした筵を敷きます。そこに塩水を撒いて蒸気を発生させ、蒸気を浴びるというのが基本的なスタイルです。
瀬戸内海沿岸では、海藻類などを一緒に蒸すことで保健治療的効果を期待した例もあるようです。
京都にある「八瀬のかま風呂」も、同じような仕組みですか?
大場先生:基本的には同じですね。八瀬のかま風呂は江戸時代の俳人が残した随筆を見ると、生木を木の葉でいぶして乾燥させるための窯が、風呂に転用されたようです。
いぶした時に発生する蒸気に、木の葉などから発散される芳香などの成分が含まれますよね。病人がその蒸気を浴びて養生するために、当初は生木を乾燥させたあとの窯で身体を温めていたようなんです。それが次第に、入浴専用に焚くようになったという記述があります。
海藻や植物など自然の恵みを活かす、まさに現代の薬草サウナの発祥のような形ですね。
大場先生:八瀬のかま風呂は伝承の域を出ませんが、壬申の乱(672年)で背中に矢傷を負った大海人皇子がかま風呂で傷を癒やしたという有名な故事があります。背中の矢傷から「八瀬(矢背=やせ)」の地名が生まれたとも言われています。
また、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢をかわして八瀬に逃げ込んだ際、傷ついた兵士がかま風呂で傷をいやしたという伝承もあり、古くから医療的効果が期待されていたようです。
瀬戸内海沿岸に石風呂の遺構がいくつか残っているのは、なにか理由があるのでしょうか?
大場先生:地理的な要因があるのかもしれませんが、正直なところよく分かりません。
『風呂のはなし』にも載せましたが、山口県山口市徳地町岸見には国指定重要有形民俗文化財になっている石風呂が遺っています。最近も訪ねる機会がありましたが、まだ実際に月に1回だったか、風呂として使っているんですよ。それはびっくりしましたね。
同じ徳寺町では40年前の取材時に、鉄骨造りで重油で焚く新しい石風呂も建設されていました。石風呂文化が根付いていて、今も垣間見られるのが山口県じゃないでしょうか。
お寺の浴室に見る「蒸し風呂」の構造
おふろの歴史を辿ると、お寺の浴室を一般の人々に開放していた「施浴(せよく)」があると聞きます。今でも大きなお寺には、浴室の遺構が残っているところがありますね。
大場先生:現在はもうおふろとしては使われていませんが、京都の禅宗の寺院などに、いくつか遺されていますね。境内に独立したお堂として建っていることがほとんどです。
妙心寺を例に説明しますが、構造的にはどの寺も同じです。お堂の中に蒸気浴を行う風呂屋形があり、その背後にある釜でお湯を沸かして、屋形内に蒸気を送りこむ仕組みになっています。
お寺での入浴は、修行の一環として非常にストイックだったと聞きます
大場先生:特に禅宗では、所作を含め入浴方法が厳格に決められていたようです。それ以外の宗派も調べたことがあるのですが、厳しい規律の記録は見つかりませんでした。
私は建築に携わる研究者で、実体を伴わないことについては説明しづらいのですが…… 南北朝時代の絵巻『慕帰繪々詞』に当時のお風呂が描かれているんですよ。「大和国菅原の僧正房覚昭房舎の蒸し風呂」として、お風呂の焚き口が描かれているのですが、これが妙心寺などに遺る浴室の構造とそっくりなんです。
妙心寺の浴室は昭和初期まで使われていたようなので、少なくとも600年近くは同じ仕組みで沸かしていたということでしょうね。
お寺に遺されている浴室の遺構で、一番古いものはどちらになるんでしょうか?
大場先生:奈良の東大寺にある大湯屋が延応元年(1239)に建てられたもので、現存する湯屋遺構の中では最古だと思います。何度も修理や改修が重ねられていますが、建物と内部にある鉄湯船はともに重要文化財に指定されています。
鉄湯船の側面には、建久8年(1197)に重源上人によって鋳造されたことが刻まれています。重源上人は東大寺再興に尽力した人で、再建のための材木を求めて現在の山口県まで行き、その際に石風呂を広めたという伝承もあるんですよ。
江戸時代に花開く町の銭湯では「半身浴」が普及
庶民の人々がおふろを楽しむ、町の銭湯の歴史も気になります。そもそも、いつ頃に登場したものなのでしょうか?
大場先生:鎌倉時代に書かれた『日蓮御書録』や京都の八坂神社に伝わる『祇園執行日記』に、「湯銭」や「銭湯」という言葉が出てきます。つまり、鎌倉時代ぐらいには入浴料を払って入る銭湯があったのではないでしょうか。中世は特におふろについての史料が限られ、実体はよくわからず、あくまで推測ですが。
もう少し時代が下って、織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝わる国宝の「洛中洛外図屏風(上杉本)」には、「一条風呂」と呼ばれた京都市中の風呂が描かれています。ここから、京都の町なかに風呂があったことがわかります。しかし、銭湯が庶民の文化として花開いたのは江戸時代に入ってからと考えていいと思います。
江戸時代のおふろの特徴は、どういったところでしょうか?
大場先生:それ以前の蒸気浴をしていた風呂と大きく変わったのは、湯を浅く貯めて、今でいうところの半身浴のように蒸気浴と湯浴みを同時に行う形が普及していったところですね。
小規模な風呂では、浴槽のある空間への入り口が引き戸になった「戸棚風呂」の形式だったようですが、銭湯では多くの人間が出入りするので引き戸では蒸気が逃げてしまいます。
そこで浴槽を囲う屋形の入り口の鴨居を蒸気が逃げないように低い位置にして、少し屈んで入る「石榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる形式が登場しました。『賢愚湊銭湯新話』には、石榴口の上部に唐破風が描かれていますが、別の史料では鳥居の形を模した入り口が描かれた絵図も遺っています。
また、安土桃山時代の「洛中洛外図屏風(上杉本)」では、まだ湯帷子を着て入浴している姿が描かれていますが、江戸時代になると裸で入浴するのが一般的になったことも絵図から読み取れますね。
江戸時代の家にも意外とおふろがあった!?
大場先生の専門である「民家のおふろ」は、どのような歴史をたどったのでしょう?
大場先生:奈良県生駒郡安堵町に「中家(なかけ)住宅」という17世紀に建てられた中世以来の土豪、いわば地方武士の住宅が遺っています。二重の壕に囲まれた立派なお屋敷なのですが、こちらには「上風呂」、いわゆるお客さん用の蒸し風呂の遺構があるんですよ。
お客さんをおふろでもてなすとは、すごく贅沢なことですね。中家は地方武士の住宅ですが、庶民の民家ではどのようなお風呂だったかわかりますか?
大場先生:一人が入れるぐらいの樽にお湯を浅く入れ、蒸気浴しながら半身浴するための風呂が各地の民俗博物館などに遺っています。「ふご風呂」や「むぎ風呂」と呼ばれることもありますが、農家住宅の土間に置くような風呂ですね。はっきりと年代の分かるものはないのですが、おそらく江戸時代から使われていたのではないかと思います。
蒸気浴と半身浴を組み合わせる点は江戸時代の銭湯と同じですね。おふろに貯めたお湯は垢やほこりで最後には泥水のようになりますよね。農家ではそれを捨てずに肥料として使っていたようです。
人の垢が肥料に!?生きる知恵というか、無駄にしない精神がすごいですね。
建仁寺の江戸中期の古文書なのですが、銭湯があったことがわかるんです。建仁寺は江戸時代に境内地の周りでたくさんの借家を経営するんですが、その中に2、3軒銭湯が確認できるんです。
すごい発見ですね。お寺の土地に銭湯があったとは。
大場先生:さらにこの史料をよく見ていくと、借家用の風呂やトイレがあることも分かってきました。路地の奥にある裏長屋の借家3軒が共同で使うような形で風呂がついているところもあるんです。
京都の古い長屋には風呂がないという先入観がありました。意外です!
大場先生:実際にどんな風呂だったかまでは史料ではわからないのですが、「湯殿」とあるのでお湯を使う場所だったことには間違いないですね。
その他の興味深い史料として、現在の京都府向日市辺りの西国街道沿いの住宅を、幕末に一軒一軒記録したものがあります。時代的には幕末ですが、街道に沿った主屋の奥に井戸と湯殿、雪隠(トイレ)が結構な割合の住宅にセットで記されているんですよ。
湯殿を所有する家と所有しない家を分類していくと、39戸中17戸に湯殿がありました。割合でいうと43.6%です。幕末ですよ。意外に多いでしょう。
戦後、内風呂普及率が昭和40年代に50%を超えたというデータはよく紹介されていますが、特定の地域とはいえ43.6%の民家にお風呂があったというのは驚きですね。これらの民家は、半農半商のような形態なのでしょうか?
大場先生:小商いぐらいはしていたかもしれませんが、ほとんどが農家じゃないでしょうか。町場に比べて農村部の方が内風呂を持っていたと考えたほうがいいのかもしれませんね。
民家研究の面白さは地域性。銭湯にも通じるかも
今日お話を聞いて、江戸時代の長屋や街道沿いの住宅に結構な割合でおふろがあったのが、すごく意外で新鮮でした。
大場先生:その点は面白いですよね。史料を見ていていつも思います。私は民家の研究者なので、場所による違いを比較するのですが、ひとくちに長屋と言っても京都と大阪では結構違うんですよね。
京都と大阪では、銭湯の造りもぜんぜん違いますよね。大阪は石造りの浴槽の周りに腰掛け段がついていますが、京都はありません。また、京都の古い銭湯では入り口を開けると、いきなり脱衣場が広がっていることがありますが、大阪では見ない形ですね。
大場先生:そういう地域性は面白いですね。銭湯では東京はペンキ絵、関西はタイル絵みたいな違いもありますし、日本の東西で全然違うというのはなにかにつけて感じますね。まるで別の国のようにも思いますね。
先生の専門である民家でも、東西の違いはあるのでしょうか?
大場先生:民家に一番違いが現れているんじゃないでしょうか。特に町家はまるで違うんですよ。水回りの配置も、お客さんの迎え方も違いますから、ライフスタイルが江戸と上方(関西)ではかなり違ったのではないでしょうか。
素人考えで、東京は武家文化、大坂は町人文化だから違いがあったと考えてしまうのですが、飛躍しすぎでしょうか?
大場先生:そうですね。ちょっと飛躍しすぎだと思います(笑)。でも実際には違いがある。民家研究をしていても各地のプランの違いが一番面白いですね。その背景をこうだから!と説明するのは、なかなか難しいのですけど。
東京では、お寺のような立派な宮造りの銭湯が伝統的なスタイルとしてありますが、関西では見掛けません。細かいところでは、ケロリン桶のサイズが関西では一回り小さいですし、地域性は本当に面白いですね。今日は貴重なお話をありがとうございました!
おふろの歴史をたどる、大場先生のインタビュー。日本人ははるか昔から、身近にある植物の恵みとともにおふろを楽しんでいたようです。松田医薬品の天然生薬の入浴剤で、歴史のロマンに想いを馳せながらおふろ時間を楽しんでみませんか?
取材・執筆:林 宏樹
撮影:岡安いつ美
イラスト:松元ミシリ