おふろタイムズ

おふろタイムズとは

『おふろタイムズ』は、日々のおふろ時間を豊かにするウェブマガジンです。入浴の質を高め、芯まであたたまるための情報から、日本各地にある温泉や銭湯をめぐるストーリー、松田医薬品の入浴剤へのこだわりまで、さまざまな記事をお届けします。

銭湯好きの中には、伝統的な銭湯建築や銭湯のユニークな装飾に興味を持ったことがきっかけで、銭湯を好きになった人を少なからず見かけます。銭湯好きと建築好きは、相性がよいのです。今も昔も、地域に欠かせない場所の一つである「銭湯」。時代とともに変化しながら、訪れる人たちの身も心も芯まであたためています。

そういった銭湯や建築が好きな人に永年愛読されている本があります。その名も『風呂のはなし(物語ものの建築史)』

大場修著、山田幸一監修/鹿島出版会刊行。1986年第一刷発行。現在は版元品切・再販未定
大場修著、山田幸一監修/鹿島出版会刊行。1986年第一刷発行。現在は版元品切・再販未

著者の大場先生は、日本の民家や町家を中心とした建築史の専門家。建築的側面に焦点をあてながら、日本におけるおふろの歴史を分かりやすく解説する内容になっています。かくいう筆者も約20年前に購入し愛蔵していました。

今回はその大場先生に、「おふろの歴史」をテーマに取材。おふろの意外な歴史から庶民とおふろの関係まで、さまざまなお話が飛び出しました。


(プロフィール)
1955年三重県生まれ。立命館大学衣笠総合研究機構教授。京都府立大学名誉教授。工学博士。専門は日本建築史。2021年より現職。著書は多数あり、近著に『図説 付属屋と小屋の建築誌 もうひとつの民家の系譜』(鹿島出版会)、『「京町家カルテ」が解く 京都人が知らない京町家の世界』(淡交社)、『京都 学び舎の建築史 明治から昭和までの小学校』(京都新聞出版センター)など。

おふろのはじまりは「蒸気浴」と「湯浴み」

先生の『風呂のはなし』を愛読していたので、取材をとても楽しみにしていました。

大場先生:ありがとうございます。もう40年ぐらい前になりますが、単著としては初めての仕事でしたね。

さっそくおふろのルーツについてお聞きしていきたいのですが、まずは「ふろ」の語源について。『風呂のはなし』の中で「ふろ」の語源は「ムロ(室)」との説を紹介されていましたね。

大場先生:民俗学者の柳田国男の説ですね。彼は「ムロ」を利用した蒸し風呂が風呂のルーツだと考えたんです。石窟などの「ムロ」に蒸気を満たして蒸気浴をしていた遺構が、瀬戸内海沿岸などにいくつか残っています。原始的な入浴スタイルとして、そういった蒸し風呂は各地にあったのではないでしょうか。

「石風呂(いわぶろ)」や京都の「八瀬のかま風呂」が、今に伝わる原始的なおふろの代表例として本の中で紹介されていました。

香川に今も残る石風呂「塚原のからふろ」(撮影:かずさまりや)
香川に今も残る石風呂「塚原のからふろ」(撮影:かずさまりや)

大場先生:日本は温泉が豊富に湧いているので、直接お湯に浸かるスタイルの「湯浴み」も蒸気浴と並行して古くから行われていたと思います。「湯浴み」は大量のお湯が必要になりますし、条件が整わないと難しく、場所が非常に限定されますからね。

対して蒸気浴は、少量のお湯で全身浴ができる非常に合理的な入浴法なんです。だから蒸し風呂をベースにして内風呂も発展していきますし、銭湯もそういった蒸気浴のスタイルから起こってくるという形ですね。

石風呂の仕組みと入浴法は、どのようなものなんでしょうか?

大場先生:燃料は木の枝だったり、枯葉だったりといろいろとあるようですが、まずムロの中でそれらを焚きます。燃え尽きたらある程度、燃えがらを掻き出し、ムロの中に濡らした筵を敷きます。そこに塩水を撒いて蒸気を発生させ、蒸気を浴びるというのが基本的なスタイルです。

瀬戸内海沿岸では、海藻類などを一緒に蒸すことで保健治療的効果を期待した例もあるようです。

筆者が以前訪れた、広島県竹原市忠海にあった石風呂「岩乃屋」。残念ながら2016年11月に廃業してしまったが、石風呂を体験できる貴重な施設だった(撮影:林宏樹)
筆者が以前訪れた、広島県竹原市忠海にあった石風呂「岩乃屋」。残念ながら2016年11月に廃業してしまったが、石風呂を体験できる貴重な施設だった(撮影:林宏樹)
岩乃屋の特徴は身近に採れる天然の海藻・アマモを使用する点。夏に訪れると、収穫したアマモを防波堤で天日干しする様子を見ることができた(撮影:林宏樹)
岩乃屋の特徴は身近に採れる天然の海藻・アマモを使用する点。夏に訪れると、収穫したアマモを防波堤で天日干しする様子を見ることができた(撮影:林宏樹)
石風呂の内部。乾燥したアマモを海水で湿らせて筵の上に敷いていた。石風呂の中で寝転がると、草の上に寝転がるような心地よさがあった。古くは生のアマモを石風呂に入れていたそうだが、生だとアマモの収穫期である夏以外は手に入らない。そこで、乾燥させるようになったと聞いた(撮影:林宏樹)
石風呂の内部。乾燥したアマモを海水で湿らせて筵の上に敷いていた。石風呂の中で寝転がると、草の上に寝転がるような心地よさがあった。古くは生のアマモを石風呂に入れていたそうだが、生だとアマモの収穫期である夏以外は手に入らない。そこで、乾燥させるようになったと聞いた(撮影:林宏樹)

京都にある「八瀬のかま風呂」も、同じような仕組みですか?

大場先生:基本的には同じですね。八瀬のかま風呂は江戸時代の俳人が残した随筆を見ると、生木を木の葉でいぶして乾燥させるための窯が、風呂に転用されたようです。

いぶした時に発生する蒸気に、木の葉などから発散される芳香などの成分が含まれますよね。病人がその蒸気を浴びて養生するために、当初は生木を乾燥させたあとの窯で身体を温めていたようなんです。それが次第に、入浴専用に焚くようになったという記述があります。

京都市左京区八瀬に復元されているかま風呂。土まんじゅう形で中は3帖ほどの広さがある。京都市指定の登録有形民俗文化財(提供:大場修)
筆京都市左京区八瀬に復元されているかま風呂。土まんじゅう形で中は3帖ほどの広さがある。京都市指定の登録有形民俗文化財(提供:大場修)

海藻や植物など自然の恵みを活かす、まさに現代の薬草サウナの発祥のような形ですね。

大場先生:八瀬のかま風呂は伝承の域を出ませんが、壬申の乱(672年)で背中に矢傷を負った大海人皇子がかま風呂で傷を癒やしたという有名な故事があります。背中の矢傷から「八瀬(矢背=やせ)」の地名が生まれたとも言われています。

また、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢をかわして八瀬に逃げ込んだ際、傷ついた兵士がかま風呂で傷をいやしたという伝承もあり、古くから医療的効果が期待されていたようです。

江戸時代の観光ガイドブック『都名所図会』(安永9年(1790))に紹介されている「八瀬竃風呂」。絵図の左側に2基のかま風呂が描かれている。ひしゃくで水を掛けて蒸気を発生させている様子がわかる(国際日本文化研究センターデータベースより引用)
江戸時代の観光ガイドブック『都名所図会』(安永9年(1790))に紹介されている「八瀬竃風呂」。絵図の左側に2基のかま風呂が描かれている。ひしゃくで水を掛けて蒸気を発生させている様子がわかる(国際日本文化研究センターデータベースより引用)

瀬戸内海沿岸に石風呂の遺構がいくつか残っているのは、なにか理由があるのでしょうか?

大場先生:地理的な要因があるのかもしれませんが、正直なところよく分かりません。

『風呂のはなし』にも載せましたが、山口県山口市徳地町岸見には国指定重要有形民俗文化財になっている石風呂が遺っています。最近も訪ねる機会がありましたが、まだ実際に月に1回だったか、風呂として使っているんですよ。それはびっくりしましたね。

同じ徳寺町では40年前の取材時に、鉄骨造りで重油で焚く新しい石風呂も建設されていました。石風呂文化が根付いていて、今も垣間見られるのが山口県じゃないでしょうか。

山口市徳寺町岸見の石風呂。石をまんじゅう形に積み上げて外側を土で塗り固めてある(提供:大場修)
山口市徳寺町岸見の石風呂。石をまんじゅう形に積み上げて外側を土で塗り固めてある(提供:大場修)

お寺の浴室に見る「蒸し風呂」の構造

おふろの歴史を辿ると、お寺の浴室を一般の人々に開放していた「施浴(せよく)」があると聞きます。今でも大きなお寺には、浴室の遺構が残っているところがありますね。

大場先生:現在はもうおふろとしては使われていませんが、京都の禅宗の寺院などに、いくつか遺されていますね。境内に独立したお堂として建っていることがほとんどです。

妙心寺を例に説明しますが、構造的にはどの寺も同じです。お堂の中に蒸気浴を行う風呂屋形があり、その背後にある釜でお湯を沸かして、屋形内に蒸気を送りこむ仕組みになっています。

妙心寺浴室。お堂の中に唐破風の意匠が見られる風呂屋形があり、この屋形内に蒸気を送り込んで蒸気浴をしていた。修行の一環であり、湯帷子(ゆかたびら)を身につけ、無言で入浴することが定められていた。風呂屋形の正面に戸棚のような引き戸がいくつも付いているのは、出入り口としての役割以外に、屋形内の温度を調節したり、明かりを取りこむためと推測される。
妙心寺浴室。お堂の中に唐破風の意匠が見られる風呂屋形があり、この屋形内に蒸気を送り込んで蒸気浴をしていた。修行の一環であり、湯帷子(ゆかたびら)を身につけ、無言で入浴することが定められていた。風呂屋形の正面に戸棚のような引き戸がいくつも付いているのは、出入り口としての役割以外に、屋形内の温度を調節したり、明かりを取りこむためと推測される。

お寺での入浴は、修行の一環として非常にストイックだったと聞きます

大場先生:特に禅宗では、所作を含め入浴方法が厳格に決められていたようです。それ以外の宗派も調べたことがあるのですが、厳しい規律の記録は見つかりませんでした。

私は建築に携わる研究者で、実体を伴わないことについては説明しづらいのですが…… 南北朝時代の絵巻『慕帰繪々詞』に当時のお風呂が描かれているんですよ。「大和国菅原の僧正房覚昭房舎の蒸し風呂」として、お風呂の焚き口が描かれているのですが、これが妙心寺などに遺る浴室の構造とそっくりなんです。

妙心寺の浴室は昭和初期まで使われていたようなので、少なくとも600年近くは同じ仕組みで沸かしていたということでしょうね。

『慕帰繪々詞 』に描かれた「大和国菅原の僧正房覚昭房舎の蒸し風呂」。1351年の制作。釜が2つあり、釜から蒸気を風呂屋形に送り込んでいる様子がわかる(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)
『慕帰繪々詞 』に描かれた「大和国菅原の僧正房覚昭房舎の蒸し風呂」。1351年の制作。釜が2つあり、釜から蒸気を風呂屋形に送り込んでいる様子がわかる(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)

お寺に遺されている浴室の遺構で、一番古いものはどちらになるんでしょうか?

大場先生:奈良の東大寺にある大湯屋が延応元年(1239)に建てられたもので、現存する湯屋遺構の中では最古だと思います。何度も修理や改修が重ねられていますが、建物と内部にある鉄湯船はともに重要文化財に指定されています。

鉄湯船の側面には、建久8年(1197)に重源上人によって鋳造されたことが刻まれています。重源上人は東大寺再興に尽力した人で、再建のための材木を求めて現在の山口県まで行き、その際に石風呂を広めたという伝承もあるんですよ。

東大寺大湯屋。お湯を沸かした構造等は現存しないが、風呂屋形の骨格とその中に鉄製の湯船が遺っている。鉄湯船は外径2メートル30センチ、深さ70センチメートルもある。鉄湯船に直接浸かっている曼荼羅絵も残っているが、中には入らずに掛かり湯をくみ出していたという説もある。
東大寺大湯屋。お湯を沸かした構造等は現存しないが、風呂屋形の骨格とその中に鉄製の湯船が遺っている。鉄湯船は外径2メートル30センチ、深さ70センチメートルもある。鉄湯船に直接浸かっている曼荼羅絵も残っているが、中には入らずに掛かり湯をくみ出していたという説もある。

江戸時代に花開く町の銭湯では「半身浴」が普及

庶民の人々がおふろを楽しむ、町の銭湯の歴史も気になります。そもそも、いつ頃に登場したものなのでしょうか?

大場先生:鎌倉時代に書かれた『日蓮御書録』や京都の八坂神社に伝わる『祇園執行日記』に、「湯銭」や「銭湯」という言葉が出てきます。つまり、鎌倉時代ぐらいには入浴料を払って入る銭湯があったのではないでしょうか。中世は特におふろについての史料が限られ、実体はよくわからず、あくまで推測ですが。

もう少し時代が下って、織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝わる国宝の「洛中洛外図屏風(上杉本)」には、「一条風呂」と呼ばれた京都市中の風呂が描かれています。ここから、京都の町なかに風呂があったことがわかります。しかし、銭湯が庶民の文化として花開いたのは江戸時代に入ってからと考えていいと思います。

江戸時代のおふろの特徴は、どういったところでしょうか?

大場先生:それ以前の蒸気浴をしていた風呂と大きく変わったのは、湯を浅く貯めて、今でいうところの半身浴のように蒸気浴と湯浴みを同時に行う形が普及していったところですね。

小規模な風呂では、浴槽のある空間への入り口が引き戸になった「戸棚風呂」の形式だったようですが、銭湯では多くの人間が出入りするので引き戸では蒸気が逃げてしまいます。

そこで浴槽を囲う屋形の入り口の鴨居を蒸気が逃げないように低い位置にして、少し屈んで入る「石榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる形式が登場しました。『賢愚湊銭湯新話』には、石榴口の上部に唐破風が描かれていますが、別の史料では鳥居の形を模した入り口が描かれた絵図も遺っています。

また、安土桃山時代の「洛中洛外図屏風(上杉本)」では、まだ湯帷子を着て入浴している姿が描かれていますが、江戸時代になると裸で入浴するのが一般的になったことも絵図から読み取れますね。

山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』(享保2年(1717))に描かれた石榴口。屈んで浴室に入るのがわかる。入り口に唐破風や欄間のような派手な装飾も見られる(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)
山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』(享保2年(1717))に描かれた石榴口。屈んで浴室に入るのがわかる。入り口に唐破風や欄間のような派手な装飾も見られる(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)
山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』に描かれた浴室内部。肩まで浸かる湯量はなく、半身浴だったことが分かる。実際の浴室内は暗く、湯の汚れなども分からなかったようだ(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)
山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』に描かれた浴室内部。肩まで浸かる湯量はなく、半身浴だったことが分かる。実際の浴室内は暗く、湯の汚れなども分からなかったようだ(国立国会図書館デジタルコレクションから引用)

江戸時代の家にも意外とおふろがあった!?

大場先生の専門である「民家のおふろ」は、どのような歴史をたどったのでしょう?

大場先生:奈良県生駒郡安堵町に「中家(なかけ)住宅」という17世紀に建てられた中世以来の土豪、いわば地方武士の住宅が遺っています。二重の壕に囲まれた立派なお屋敷なのですが、こちらには「上風呂」、いわゆるお客さん用の蒸し風呂の遺構があるんですよ。

重要文化財に指定されている中家住宅の上風呂。戸棚風呂の蒸し風呂仕様になっている。風呂屋形に簡易な唐破風が付いている部分も興味深い(提供:大場修)
重要文化財に指定されている中家住宅の上風呂。戸棚風呂の蒸し風呂仕様になっている。風呂屋形に簡易な唐破風が付いている部分も興味深い(提供:大場修)

お客さんをおふろでもてなすとは、すごく贅沢なことですね。中家は地方武士の住宅ですが、庶民の民家ではどのようなお風呂だったかわかりますか?

大場先生:一人が入れるぐらいの樽にお湯を浅く入れ、蒸気浴しながら半身浴するための風呂が各地の民俗博物館などに遺っています。「ふご風呂」「むぎ風呂」と呼ばれることもありますが、農家住宅の土間に置くような風呂ですね。はっきりと年代の分かるものはないのですが、おそらく江戸時代から使われていたのではないかと思います。

蒸気浴と半身浴を組み合わせる点は江戸時代の銭湯と同じですね。おふろに貯めたお湯は垢やほこりで最後には泥水のようになりますよね。農家ではそれを捨てずに肥料として使っていたようです。

人の垢が肥料に!?生きる知恵というか、無駄にしない精神がすごいですね。

農家住宅で土間に据えて使われていた「ふご風呂」。釜の上に樽を据え、入浴中は「ふご」をかぶせ蒸気が逃げないようにして半身浴をした(提供:大場修)
農家住宅で土間に据えて使われていた「ふご風呂」。釜の上に樽を据え、入浴中は「ふご」をかぶせ蒸気が逃げないようにして半身浴をした(提供:大場修)

建仁寺の江戸中期の古文書なのですが、銭湯があったことがわかるんです。建仁寺は江戸時代に境内地の周りでたくさんの借家を経営するんですが、その中に2、3軒銭湯が確認できるんです。

すごい発見ですね。お寺の土地に銭湯があったとは。

大場先生:さらにこの史料をよく見ていくと、借家用の風呂やトイレがあることも分かってきました。路地の奥にある裏長屋の借家3軒が共同で使うような形で風呂がついているところもあるんです。

京都の古い長屋には風呂がないという先入観がありました。意外です!

大場先生:実際にどんな風呂だったかまでは史料ではわからないのですが、「湯殿」とあるのでお湯を使う場所だったことには間違いないですね。

その他の興味深い史料として、現在の京都府向日市辺りの西国街道沿いの住宅を、幕末に一軒一軒記録したものがあります。時代的には幕末ですが、街道に沿った主屋の奥に井戸と湯殿、雪隠(トイレ)が結構な割合の住宅にセットで記されているんですよ。

湯殿を所有する家と所有しない家を分類していくと、39戸中17戸に湯殿がありました。割合でいうと43.6%です。幕末ですよ。意外に多いでしょう。

戦後、内風呂普及率が昭和40年代に50%を超えたというデータはよく紹介されていますが、特定の地域とはいえ43.6%の民家にお風呂があったというのは驚きですね。これらの民家は、半農半商のような形態なのでしょうか?

大場先生:小商いぐらいはしていたかもしれませんが、ほとんどが農家じゃないでしょうか。町場に比べて農村部の方が内風呂を持っていたと考えたほうがいいのかもしれませんね。


民家研究の面白さは地域性。銭湯にも通じるかも

今日お話を聞いて、江戸時代の長屋や街道沿いの住宅に結構な割合でおふろがあったのが、すごく意外で新鮮でした。

大場先生:その点は面白いですよね。史料を見ていていつも思います。私は民家の研究者なので、場所による違いを比較するのですが、ひとくちに長屋と言っても京都と大阪では結構違うんですよね。

京都と大阪では、銭湯の造りもぜんぜん違いますよね。大阪は石造りの浴槽の周りに腰掛け段がついていますが、京都はありません。また、京都の古い銭湯では入り口を開けると、いきなり脱衣場が広がっていることがありますが、大阪では見ない形ですね。

大場先生:そういう地域性は面白いですね。銭湯では東京はペンキ絵、関西はタイル絵みたいな違いもありますし、日本の東西で全然違うというのはなにかにつけて感じますね。まるで別の国のようにも思いますね。

(左)平和温泉(大阪府池田市)の浴室。浴槽の周りに腰掛け段があるのが大阪の銭湯の特徴。(右)戦前の京都の典型的な銭湯建築がそのままの姿で残る栄盛湯(京都市左京区)。浴室は近代的に改装されている。(画像提供:林宏樹)
(左)平和温泉(大阪府池田市)の浴室。浴槽の周りに腰掛け段があるのが大阪の銭湯の特徴。(右)戦前の京都の典型的な銭湯建築がそのままの姿で残る栄盛湯(京都市左京区)。浴室は近代的に改装されている。(画像提供:林宏樹)

先生の専門である民家でも、東西の違いはあるのでしょうか?

大場先生:民家に一番違いが現れているんじゃないでしょうか。特に町家はまるで違うんですよ。水回りの配置も、お客さんの迎え方も違いますから、ライフスタイルが江戸と上方(関西)ではかなり違ったのではないでしょうか。

素人考えで、東京は武家文化、大坂は町人文化だから違いがあったと考えてしまうのですが、飛躍しすぎでしょうか?

大場先生:そうですね。ちょっと飛躍しすぎだと思います(笑)。でも実際には違いがある。民家研究をしていても各地のプランの違いが一番面白いですね。その背景をこうだから!と説明するのは、なかなか難しいのですけど。

東京では、お寺のような立派な宮造りの銭湯が伝統的なスタイルとしてありますが、関西では見掛けません。細かいところでは、ケロリン桶のサイズが関西では一回り小さいですし、地域性は本当に面白いですね。今日は貴重なお話をありがとうございました!

おふろの歴史をたどる、大場先生のインタビュー。日本人ははるか昔から、身近にある植物の恵みとともにおふろを楽しんでいたようです。松田医薬品の天然生薬の入浴剤で、歴史のロマンに想いを馳せながらおふろ時間を楽しんでみませんか?

取材・執筆:林 宏樹
撮影:岡安いつ美
イラスト:松元ミシリ

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